昔、まだ私が小さな頃に、父親の知り合いで、ある宗教団体に入っている社長さんがみえました。その社長は自動車事故を起こし左目を失明してしまいました。その宗教に入ってからのことですが、その社長は「あの事故で左目を失っただけなのは運が良い。あの宗教に入ったおかげだ」と、父や父の知り合いによく言ってました。父親の知り合いは、その社長には言いませんでしたが、父に「いや、事故で左目を失くしたんだから、その宗教のせいだろ?」などと父に言ってたのを覚えています。
これも「事故を起こしたことは、その宗教に入った事と直接の因果関係はないでしょう。同時に左目以外が無事であった事とも因果関係はないと思います」。しかし、自動車事故を起こしたことも左目を失った事も逆にそれ以外は無事だったことも事実です。その事実に「いかに意味をもたせるか?」、それは人それぞれだという事です。
要するに、「『この宗教は災いを呼ぶ悪の宗教』と『この宗教は命を救ってくれた善なる宗教』という相反する捉え方をどちらにでもできる」ということです。この二つの考えは、この場合「『自動車事故を起こした』という事実から『善だ悪だと意味をもたせた』考えである」ということです。
この考えは、一見ゲシュタルト心理学が得意とする「脳(心)は不安定を嫌う為に繋げて考えてしまう癖がある」という考えに思えてしまう方もみえるかも知れないのですが、少し違うのでもう少し説明しますね。
「脳は不安定を嫌う為に繋げて考えてしまう」という考えでは、例えば「転んだ、痛い。普通に歩いてたのに何故?」、ふっと時計を見ると3時であった。「財布を落とした、見つからない。あの時しっかりバックに入れてたはずなのに何故?」、ふとカレンダーを見ると今日は3日だった。「自動車を運転して駐車場に入れようとした時、バックでぶつけてしまった。いつもは上手く入れられるのに、何故?」、今は3月だった。
こんな時に人は誰でも無意識に繋げて考えてしまい、「3」は私にとって「不吉な数」と意味を持たせることで、「何故?」に理由をつけ、心を安定させます。これは「繋げて考えるだけの、数字の2」の思考法ですよね?
先程の「この宗教は災いを呼ぶ悪の宗教」と捉えた方も、もちろん「数字の2の繋げるだけ」の思考法ですよね?
同じように「この宗教は命を救ってくれた善なる宗教」、この方も同じように「数字の2の繋げるだけ」の思考法です。
この方達は対立する概念を統合できずに片方だけに決めつけてしまった(繋げてしまった)。そこから離れられない。だから「繋げて考えるだけの数字の2の思考法」なのです。
しかし、今これを読んでいて「うーん、どちらとも取れるよな?」と思えたあなたは、既に相反する考えを統合しつつあります。もう一歩踏み込んで「善悪どちらとも捉えれるこの宗教に、善だ悪だと決めつけた自動車事故に着目していれば、統合した思考法が出来てくると思います。先程も言いましたが「善」でも「悪」でも意味を持たせたのが「自分自身だ」と気づいていれば、反対の考えも受け入れる事もできてくると思います。
「私にとってご加護を授けてくれた宗教だ」と良い点を見つけると同時に、「しかし、この宗教のお蔭で色々な人間に迷惑もかけたのかな?」など、悪い点も素直に認められて、「笑って」この宗教を愛する事が出来るのなら、私は善も悪も統合できた魅力のある人物に思えますが、いかがでしょうか?