その後、私と話していた刑事さんの計らいなのか、彼らの取り調べを別の刑事さんに変えてくれたようでした。
その後は彼らも落ち着き、事情を話したらしいです。
らしいと言うのは、一通り話した私は「もう帰っても結構です」と言われたので帰ったからです。
刑事さんが警察署の入口までついてきてくれて俺に言いました。
「いやぁ、下手すると殺されてましたよ。何人もあんな奴ら見て来たんで」
俺
「いや、話すと意外にイメージ違うんですよ。真面目に働いてるみたいだし、刑事さんも話してみてやってください。刑事さんなら必ず解りますから」
初めて会った刑事さんですが、とても好感のもてる方でした。
その後、刑事さんからお電話を頂き、被害に遭った方と殴っちゃったお兄ちゃん達から
「本当にありがとうございました。」と、順番にお礼の言葉を頂きました。
少し長くなりましたが、何が言いたいかと言えば、私から見た世界が
「首をつっこんで経験した世界」
「そのまま通り過ごした世界や事件に気がつかなかった世界」
で、全く印象が違う世界を感じてしまうという事です。
例えば「そのまま通り過ごした世界、事件に気がつかなかった世界」を私が選択したとしましょう。
次の日の新聞などでは、〇〇県警〇〇署は〇〇日、傷害致死罪の容疑で〇〇と〇〇ら二人を逮捕した。
被害者の○○さんと口論になり、暴行を加え死亡させた疑い。
調べに対し「口論となりカっとなった」などと話し、容疑を認めている。
などの記事を読むかもしれません。更に、他にあまり大きな事件がない時、マスコミにとりあげられたりすれば、被害者の〇○さんは日頃とても温厚で真面目な会社員であることがクローズアップされ、それと対比させるように暴行を働いた二人の若者達の「素行の悪さ」を拡大解釈させ報道されるかもしれません。
それを見た「事情が解らない俺」などは「なんで真面目に働いている優しい人がこんなひどい目に遭うんだ!けしからん!」と思ってしまうかもしれません。
更に「人を死においやるほど殴るなんて、どんだけ凶暴な奴らだ。本当に酷い奴らだ」と思ってしまうかもしれません。
この暴行を加えた彼らは「悪」以外の何者でもなく、被害者は全くの「善」として受け止めてしまうでしょうね。
しかし、「首をつっこんで経験した世界」になると、違った世界が見えてきてしまいます。勿論暴行を加えた人が「善」になることはありませんが、仲間思いの事や、きちんと話し合えれば素直で人を思いやる気持ちも持ち合わせている若者達だと思えてきてしまいます。
一方、暴行を受けた若者のほうは「横断歩道に車がかかって停車してしまい、自転車で進む彼の妨げになったとしても、車を蹴るのは良くない事です」。
更に「彼らの事を知りもしないのに、人をゴミ呼ばわりするのはいただけません」
更に更に酔って動揺していたとは言え、止めてくれた私にむかい、「殺される」はないでしょ(笑)
ここが一番ムカつきます(笑)
(私は人間出来てないんで)(笑)
などの理由で、もちろん「悪」とは言えないけど、「うーん、飲み過ぎには気をつけようね」と思ってしまいます。故に私はこの方の行為は「善」とは言えません。
このように体験や経験で情報を得たり雰囲気を味わってしまうと、「善」「悪」はっきり分けれない事も多くあります。
これくらいの小さな事ならブログに書く気になりますが、若いころは結構、書けないようなことも数多く体験させていただきました。
その度に自分が思ってる先入観やレッテル、思い込みが、いかに世界を歪めて見ていたのか気にづかされました。
故に白も黒も、純粋なものも勿論ありますが、多くの場合、皆「前に書いた泥水ではないのかな?」なんて、年を重ねる度に実感します。
もちろん私も同じです(笑)