光があれば影があります。光という言葉だけでも明るく肯定的で善のようなイメージが自然に湧いてきますよね?
それとは逆に、影と聞くだけで暗く、どこかネガティブで否定的な印象、隠されたイメージや闇などのイメージが湧いてきませんか?

人とは面白いもので、一度先入観を持つとそのように考えてしまいます。先入観は悪いものではないのですが邪魔することもあります。
何が言いたいかと言えば、シャドウにそのような「悪」のようなイメージを持つこと自体が無意識に「シャドウを心から締め出してしまう」こともあるのでは?と、思うだけです。
あなたは焼けつく日差しのもと、砂漠を歩いています。今にも倒れそうになるくらい日差しは強く、そこに大きな木が立っています。その大きな木がつくる影はあなたを強い日差しから守ってくれます。こんな風に言うと影の印象も変わって来ませんか?
捉え方によりイメージは変わるということです。これをまずはしっかり理解しましょう。

シャドウとはもちろん「影」という意味です。誰の影でしょうか?そう、私達自身の影を指します。
私たちが「ああいう人は許せない」「あんな奴は大嫌い」、そこまでいかなくとも「あの人は人に冷たいところがあるから嫌い」とか、人それぞれ許せないところや嫌いなところ、嫌いな人がいます。そんな嫌いな人達があなたのシャドウです。
シャドウとは自分が認めたくない嫌な部分や不足していると思える部分、間違いだと思う態度や抑圧された願望など、自分には不要と思われるものが無意識に追いやられ、自分では気づかずに色々な人に投影して「嫌いな人」「嫌な奴」をつくりだしてしまいます。ですから「今まで自分を苦しめていた嫌な奴がいない職場に移れた。ラッキー!」と思ってもまた、同じような人が必ず現れてしまいます。

本当にこのシャドウに悩まされている方は同じことを言われます。私のお客様はほとんど長いお付き合いなんで、10年以上の単位で人を観察させていただけます(笑)。その人が出世しようが成功しようが、シャドウを克服しなければまたシャドウに悩まされてしまいます。「今度の後輩は今までとは違うんで大丈夫」と言ってる会社員の方やOLさんなんかも、少し経つとまた同じように「本当に今の若い奴は・・・」。同じことでまた悩みます。「今度の職場はみんな思いやりがあって・・・」しばらくすると「やっぱり、冷たいところが・・・」。投射していることには気づかないもんです。
気づかないからこそ無意識なんですよ(笑)。これは人だけでなく、事柄によってもおきるものです。
「同じ失敗」「同じ過ち」「またしてしまった」「どうしても治らない」「何故、またやっちゃうんだろう」こんなことが誰でも多くあります。私も未だにあります(未熟者ですから(笑))。もし、自分とは逆のシャドウがこれを起こしている原因では、と考えるとどうでしょうか?
霊能者なら悪霊って呼ぶかもしれませんね(笑)。悪霊ではなくシャドウならきっと克服できるし、人格に統合できるはずです(普遍的影、根源的悪は別です)。要するに「私には必要ではない」「私は違う」、そのこと自体は個性かもしれませんが、「本当に私は違うのでしょうか?」「本当に私には必要ないのでしょうか?」「私は常に優しい人でしょうか?」「私はいい加減なところがないのでしょうか?」「私は自分の事だけ考えてしまい、人に思いやりをかけれない時はないのでしょうか?」

私はあります!(笑)いい加減。弱い、情けない、臆病、知ったかぶり、冷たい、自己中、うーん・・多分書けないほどの弱点を抱えてます。若いころは「そんな奴が大嫌いで周りは敵だらけ」「自分はそうじゃない」と思えば思うほど、頑張れば頑張るほど「人嫌い」になりました。今、はっきり言える事は「そんな自分を認めれば、そんな人とも心から解り合える」ということです。「周りに敵はいなくなります。見事にいなくなりました」。頑張らなくちゃならないこともあります。でも頑張りすぎて見落とすこともあります。頑張らなくても気がつくだけで上手くいってしまう事も多くあります。シャドウは影です。でもシャドウもまた私です。私がもし人に必要とされているとすれば、それは同時に「人に必要とされていない、自分勝手でわがままな自分」がいるということです。
では逆にあなたが「誰にも認められず、誰にも必要とされていない」と思っているなら、シャドウは「誰にでも好かれ、皆に認められている人気者」。それがあなたのシャドウです。そんなあなたのシャドウを誰かに投影してませんか?そして妬んだり嫌ったりしてしまう。
「いえ、いえ。その人気者、実はあなたですから」って事になりませんか?(笑)
シャドウを論じる時、やはり対象が対象なだけに、ほとんどネガティブなイメージで話されてしまいます。「性欲に関することは汚い、下品」と思えば「その衝動は無意識に追いやられます」。尊敬される立派な教師でなければならない。尊敬される立派な医者でなければならない。
「尊敬される立派な・・・」「汚い、下品な性欲は排除しなければ」なんて思えばどうでしょうか?
よくこの手の立派な方が、色々な猥褻行為で捕まってしまいます。「尊敬される立派な・・・」これはただの役割で「俺、本当はスケベだから」なんて人は、こんな事は起こしません。
教師も医師も弁護士も宗教家も「ただの役割」と思うなら、そんな事にはならないはずですよね。この役割を「ペルソナ」と言います。

ユング心理学ではペルソナとシャドウの関係を光と影にたとえます。ペルソナとは、社会や様々な人間関係に属するうえでの一種の役割であり、仮面です。私達自身もその役割を演じる事にどちらかと言えば肯定的です。もちろん嫌な役割や、嫌な仮面をかぶらなければいけない場合もありますが、あくまでも仮面だし役割なので、変えることも可能なわけです。少なくともその役割や仮面については意識できやすいはずです。故にユング学者の中には、集合的無意識の中にペルソナを入れる事について疑問を唱える方もみえます。意識化できているので「無意識の領域に何故ペルソナが入るのか?」などの考え方だと思います。それはさておき、ペルソナもあまりその役割や仮面が1日の内で長く続き、その役割や仮面が「本来の自分」なのか「役割からきている自分」なのかが解らなくなれば、とても窮屈に感じてしまいます。さらに続けば、息苦しさや耐えがたい苦しみを感じてくるはずです。このような時は「本来無意識はしっかりとあなたに教えてくれているはずです」。よく夢で教えてくれると言われます。靴や服が窮屈とか、合わない靴や合わない服、仮面が外れない、脱げない靴や服、色々あります。では夢を見ない人は(実際、覚えてないだけ)。以前、とてつもない形相で顔面蒼白になり、冷や汗を流しながら来られた方がみえました。その方は立派な会社の社長さんでした。病院に行っても精神科の薬でも毎日がきつく感じられるようでした。この方は「きっと社長という役割に押しつぶされてしまいそうなんだな」と、私は感じました。この方が「役割からちょっとは離れても大丈夫」と、ご自分で思われた時、この症状は消えてしまいました。肩こり、頭痛、腰痛、心臓や脈拍の異常、高血圧や低血圧、冷え、アレルギー、むくみ、などの体の症状は様々な原因で起こるものです。
生活習慣や外部的要因、高齢など色々でしょう。しかし「役割が原因です」とは医師は言わないものです。
体の不調もまた無意識からのメッセージにもなるということです。
(ここまでは本当のことですが、ここから書く社長のお話はただのつくり話です)
このように、一概に光が「善」、影が「悪」ということにはなりません。表裏一体なわけです。ペルソナは社会の一員である以上、また人間関係がある以上必要なものです。社会規範、社会での正邪・善悪を区別する道徳性、みな必要です。でも当然それとは逆の抑圧された影を無意識に追いやります。シャドウは「恐怖」「逃避」「抑圧」などにより、力が強まります。
例えば、先程の社長さんの例で言えば「社長である自分が頑張らなければならない」「従業員やその家族の為にもトップの私が頑張らなければ会社は回らない」。立派な社長です。しかし社長というペルソナがそう思わせていることも事実です。その役割が行き過ぎて、「もっと会社も従業員も豊かでなければならない。その為には私はもっともっと働いて頑張らなくてはならない」と追いつめてしまったらどうでしょうか?こんな時、内なる声としてシャドウが言います。
「本当は休みたいんじゃないか?怠けたいんだろ?」「本当はすごい社長と認められたいだけで、従業員の為か?」
それでも社長は抑圧します。「いや違う、そんなことはない。俺は認められることより従業員の幸せが・・・」
それでも認められないシャドウは、怒りという抑えきれない感情を家族や従業員にぶちまけてしまったりする事で現れてきます。怒りのエネルギーがある程度出てしまえば、ふっと我に返ります。「何であんなに怒りが出たのか?」本当のところ理解できません。しかし何とかこじつけなければ心のバランスを失ってしまいます。「そうだ、あいつが悪いんだ。あんな怠け者はうちの社員ではない」なんてことにもなります。怠けたいシャドウを投影します。

もし、そういうことを無視しようとしたり、無理に抑えつけようとすれば、そこに葛藤のようなものが起こって、先程の社長さんのようになったりします。辛くなったり、退行したり、身体的な病気、精神的な病気にもなったりします。
こういうことがあるから、「影とは向き合わないといけない」とか、「影と話しあわなければならない」と言われています。
しかしシャドウは、自分が拒絶するだけあって、拒絶するだけの確たる根拠や理由があるものです。よく何らかの成功を収めた方達が「問題や恐れは逃げてもだめ。だからって対決してもだめなんだよ」などと言われます。じゃあどうすれば?「はっきり恐れや問題から目をそむけずに面と向かうことだ」と言います。シャドウも同じようなものでは、と思います。逃げてもだめ、無視してもだめ、対決してもだめ、言いなりになってもだめ。ただ認める。しっかりと受け入れる。すると、大したことではない、と少しずつでも思えてきます。
そして、そんな認めたくない部分も「もしかしたら誰でも持っているのかな?」なんて自然に思えてきたりもします。その後、徐々にシャドウをペルソナの規範に反しないように建設的に「満足させてあげる方法」が自ずと見えてくるものだと思います。