よく「幸せになりたい」とか言います。でも「幸せ」とは何でしょうか?
木の実を欲しいと思うものが木の実を採ることばかりに必死になっていれば、「木の実を多く採ること」や「美味しい木の実を採る」ことばかりに目がいくでしょう。
更には「自分の腹を満たすこと」「欲求を満足させること」そのものが、そのものの目的になります。
また「将来採れなくなるであろう木の実に不安を抱けば、備蓄するため」より多く、より大きなもの、より良いものを採ろうとするでしょう。
このようになれば「木」を選ばずに「実」の方しか見えないので、採りすぎた木には次の年にはもう実をつけないかもしれない。
そんな考えも浮かんできません。
その目的が、例え他のものに迷惑をかけるとしても、「目的を果たす」大義名分(行動のよりどころとなる理由)があるので、他人からしたら「おかしなことやいい迷惑」でも、そのものは木の実を採る目的を果たすのに必要な行動を「善」にしてしまいます。
欲しいものが「手に入れば幸せ」、それはそれで「幸せを感じる」事も出来るのでしょう。
しかしすぐにそのものに「満足」したり「飽きてしまったり」「他のものが欲しくなる」かもしれません。
もしくは欲求がエスカレートして「もっともっと欲しい」となるかもしれません。
そしてまた「〇〇があれば幸せだ」と幻想を抱き、必死にそれを追い求める。
そしてまた「〇〇ならば幸せだ」と手段を探し、必死にそれを追い求める。
「手に入れば幸せ」という事は「手に入らなければ不幸せ」という理屈になってしまう。
「〇〇ならば幸せ」なら「〇〇でない今は不幸せ」になってしまう。
そうすると、その目的自体が自分のあらゆる可能性や自由を「縛って」しまう。
「手に入れられないこと」「〇〇でないこと」「〇〇できないこと」などで、多くの人は「苦しみを感じて」生きないといけなくなる。
「手に入らないもの」を「手に入れよう」と、もがいても「苦しむ」。
「できないことを」「できるようにしよう」と、もがいても「苦しむ」。
もちろん望みを果たさないうちに苦しみながら一生を終えてしまうこともあるでしょう。
こういった「苦しみ」を釈迦は「求不得苦」(ぐっふとっく)と言いました。
釈迦は「何故人は苦しむのか?」それを徹底的に考え、「悟った」方ですよね。
それとは対照的に「手に入らないもの」を「手に入れよう」とか「できないことを」「できるようにしよう」とか、時には「人を越えた力を用いて」何とかしようとするのが「呪術」や「魔術」です。(もちろん一般的なイメージと一つの側面ですが)
「呪術」や「魔術」などを学んだり、目的を持ち「思いを現実にしよう」と「成功哲学」や「潜在意識や法則」を学んだり本気で取り組んでいっても、結局どこかで釈迦が言う「求不得苦」にたどり着く時があるはずです。(認めるか認めないかだけで(笑))
間違えてもらっては困るのは、だから「目的をもったり、夢を叶えようとすること」は「やめたほうがいい」と言っているのではなく、むしろ逆です。
つづく・・・