戌年の方からコメントと質問をいただいたので、戌年にまつわることをちょっと・・・。
戌年は、コツコツ努力をする年、新しいことをはじめると良い年などとよく言われますね。
戌年の守り神は阿弥陀如来、また八幡様と同一にみなされますね。
更に八幡神社は応神天皇と同一とされていて、武運を司る神様ですね。
そのことから発展し、今では出世や勝負事にもご利益があるとされています。
八幡神をまつる神社は、枝宮(えだみや)・枝社(えだやしろ)を含めれば数万社とも言われています。日本一数が多いと言われる神社なので、皆さんのご近所にもあると思われます。
ちなみに阿弥陀様の真言はオン アミリタ テイゼイ カラ ウン ですね。
このような事を学んだり調べていたりすると、よく「この神様とこの仏様は同じで」などとなるので混乱される方もみえるかも知れませんが、あまり深く考えず(笑)実際に拝んだりしてみて感覚を磨いていったほうがよいのかな?なんて個人的に思ってしまいます。
犬にまつわる神社は全国でも色々ありますね。中でもおまじないのこのブログにふさわしい逸話のある神社があります。愛知県名古屋市にある伊奴神社です。
呼び方も「いぬ神社」なので、戌年生まれの人や愛犬家に人気があります。特に戌年の元日には各地から多数の参拝者が訪れる神社ですね。
この神社、天武天皇の時代にこの地で取れた稲を皇室に献上した際に社殿を建立したと伝えられる由緒ある神社なんですが、意外に地元の方もあまり知らないみたいです(笑)。
主神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)、大年神(おおとしのかみ)、伊奴姫神(いぬひめのかみ)です。
素盞嗚尊(すさのおのみこと)は父神から追放されたので、高天原(たかまがはら)の姉である天照大神(あまてらすおおみかみ)をたずねましたが、あまりの乱行をかさねたので、姉の天照大神は怒って天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまった。その騒動を起こした張本人ですね(笑)。その後に出雲(いずもの)で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治するのは有名なので聞いたことがありますよね。そして出雲地方を治めます。産業発展、商売繁盛、病気平癒等の霊験あらたかな神様と言われます。
大年神(おおとしのかみ)は毎年正月に家にやってくる神様ですね。その土地により呼び方はそれぞれで、とんどさん、正月様、恵方神、大年神、トシドン、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれるみたいです。諸子百家の一つ陰陽家(いんようか)でも「年神」という元旦に来訪する神霊がいます。娑伽羅竜王(しゃがらりゅうおう)の娘、頗梨采女(はりさいじょ)のことですね。
伊奴姫神(いぬひめのかみ)は大年神の御妃ですね。子授け、安産、夫婦円満、家内安全等にご利益があるとのことですね。この神社の由来となった神様ですね。
さて、この神社にまつわるお話の事ですが、神社のサイトから引用させていただきますね。
伊奴神社
http://www.inu-jinjya.or.jp/yuisho/
当神社には創建にまつわる次のような伝説があります。
名古屋市の民話資料集の中に伊奴神社の犬にまつわる話が記載されております。
今でもこの辺りは稲生町、又穂町という地名が残り、昔は庄内川の豊富な水を使って大変稲作が盛んであったところと言われております。
ある日、山伏が旅の途中で伊奴村(現稲生町)に泊まった時のこと。
村人から洪水で困っているという話を聞き、山伏は泊めてもらったお礼に御幣を立てお祈りをしてくれた。するとその年は洪水もなく豊作であった。
不思議に思った村人は、山伏から開けてはいけないと言われていた御幣をあけてしまった。
するとその中には一匹の犬の絵と犬の王という文字が書いてあった。
そして中身を見てしまった(ご利益がなくなる)ので次の年はまた洪水に見舞われた。
再び山伏が村を訪れたので御幣を開けてしまった事を謝り、もう一度お祈りして欲しいと頼んだところ、山伏は「御幣を埋め、社を建て祀れ」と言って立去った。
言われたとおりにしたところ、以後洪水はなくなり稲がよく穫れるようになった。
それが伊奴神社の始まりであると伝えられ、以後災難厄除けの神様として崇められてきました。
ご祭神、伊奴姫神さまは安産、子授けに大きなご神徳を頂ける神様であり、犬は安産する(お産が軽い)ことから、犬の石像が奉献されております。
この伊奴神社の「伊奴」なんですが、この神社のあるあたりは稲生町と言われるそうです。
また名古屋市の資料によれば、稲生町と呼ばれる稲生は元々が「伊奴」であり、この神社のほうの呼び方が元のようです。
そして「稲生」で思い出されるのが「稲生物怪録」ですね。
以下また引用です(笑)
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%9F%E7%89%A9%E6%80%AA%E9%8C%B2
『稲生物怪録』(いのうもののけろく、いのうぶっかいろく)は、江戸時代中期の寛延2年(西暦1749年)に、備後三次藩(現在の広島県三次市)藩士の稲生武太夫(幼名・平太郎)が体験したという、妖怪にまつわる怪異をとりまとめた物語。
著者は柏生甫であり、当時16歳であった実在の三次藩士、稲生平太郎が寛延2年7月の1ヶ月間に体験したという怪異を、そのまま筆記したと伝えられている。あらすじは、肝試しにより妖怪の怒りをかった平太郎の屋敷にさまざまな化け物が30日間連続出没するが、平太郎はこれをことごとく退け、最後には魔王のひとり山本五郎左衛門から勇気を称えられ木槌を与えられる、というものである。平太郎の子孫は現在も広島市に在住、前述の木槌も国前寺に実在し、『稲生物怪録』の原本も当家に伝えられているとされる。現在は、三次市教育委員会が預かり、歴史民俗資料館にて管理している。稲生武太夫の墓所は広島市中区の本照寺にある。
目次 [非表示]
1 解説
2 書名の読み方について
3 稲生神社
4 脚注
5 参考文献
解説[編集]
その内容の奇抜さから、『稲生物怪録』は多くの高名な文人・研究者の興味を惹きつけた。まず江戸後期に国学者平田篤胤によって広く流布され、明治以降も泉鏡花(「草迷宮」)や稲垣足穂(「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」)、折口信夫らが作品化している。近年の妖怪ブームにのり、最近では民俗学者の谷川健一や荒俣宏、伝奇作家の京極夏彦らも関連本を発行、水木しげるも『木槌の誘い』で漫画化し、『地獄先生ぬーべー』でも劇中のエピソードで紹介された。また三次を舞台にした宇河弘樹の漫画『朝霧の巫女』に取り上げられたことで、三次に若い観光客が増えているという。
書名の読み方について[編集]
国文学者の田中貴子は、著書『鏡花と怪異』において、
「ちなみに、ほとんどの人は『いのうもののけろく』と読んでいるが、『国書総目録』では『いのうぶっかいろく』として見出しがあげられている。『物怪』が『もののけ』と読めないことはすでに森正人の指摘があるので、『ぶっかいろく』と音読みすべき」
と指摘した[1]。また自身のブログでも、
「『稲生物怪録』について講演しにいったところ、地元の青年会の人が「いのうもののけろく」と言っていました。これが間違いだということをなぜか誰も言いません。間違いです。『国書総目録』ひいてみてください。「いのうぶっかいろく」で出ていますよ。その他にも例はあります。ちゃんと勉強してください」
広島市南区稲荷町の稲生神社は、豊受大神や大國主命と併せて稲生武太夫を御祭神として祭っている。町名と違う理由は諸説あり定かでない。17世紀初頭に創建されたが原爆で全て焼け、再建された。後にビルの建設で、当初の位置より少し東寄りに再々建されている。昨今の妖怪ブームで前述の荒俣宏や京極夏彦、水木しげるも調査に訪れている。
日野の歴史と民俗134(詳細版)
http://hino-museum.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/06/rekimin134.pdf
こちらの方お詳しいですね!(鋭い)
国家鮟鱇
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20100416/1271415386
とのことですが、はたしてこちらの「伊奴神社」、何か関係があるのかな?なんて妄想してみるのも楽しいですね(笑)