前回からの続きですね。
デザイン系の人は良く使う言葉なので知っていると思います。「アフォーダンスが在る」とか「アフォードしている」とか使われているようですね?
これらの方達がどう使用されてどう受けとっておられるかは解りませんし、私自身も今からするお話しで本来の用い方とは違う点も在るかもしれませんが、「使えれば何でも使ってみる」主義なのであしからず(笑)。
アフォーダンスとは、アメリカの知覚心理学者であるジェームズ・J・ギブソンによる造語ですね。「与える」とか「提供する」という意味であるafford(動詞)を用いてaffordance(名詞)としました。
一口に言ってしまえば「環境」や「もの」が「動物や人」に対して与える「意味」のことです。
私達の周囲の「環境のあらゆるもの」はアフォーダンスをもっています。
私達はそれらの環境からアフォーダンスを知覚し、掴みだすことが出来ます。
椅子は「座る」をアフォードしていて、扉は「開く」をアフォードしています。テーブルは「物を置く」をアフォードしています。
今までの認識では、環境や「もの」から意味のあるイメージをつくると考えられましたが、
環境や「もの」は個々に特性を与えられ存在している。そして環境や「もの」自体が人や動物の行為を引き出そうと提供 (アフォード) してくれる機能をさします。
そうは言っても、環境が何を提供してくれているかも人によって違いがありますよね?
例えば日本昔話で登場するような、山につづく街道などをイメージしてみてください。
そこをあなたは歩いています。もう、かなり歩いています。傍らに大きな岩が見えます。
丁度、そこに腰かけていた人がどいて、こちらを「ちらっと見て」立ち上がり、また前を歩いていきました。
あなたは丁度よい「椅子」があったと思い座りませんか?
山につづく街道があります。そこをあなたは歩いています。もう、かなり歩いています。
傍らに大きな岩が見えます。老婆がその岩の傍らに座り込み、岩に向かい手を合わせて拝んでいます。更に後ろから中年の男性も座り込み、同じように拝んでから立ち上がり、前を歩いていきました。
あなたは、この岩には何か神が宿っていると思い、拝みませんか?
同じ岩でも「神」にも「椅子」にもなってしまいます。しかしこれらは少し考えてみればわかるのですが、岩がアフォードしているわけではないですよね?
岩を椅子にしている人や岩を拝んでいる人を見て、「椅子」や「神」に見立ててしまったんですよね。
故に岩が座れとアフォードしてくれているわけでも、拝めとアフォードしてくれているわけでもありません(シグニファイアですね)。
これを更に本題のお話に結び付けてみましょう。
あなたは会社に勤め何年か過ぎましたが、会社の付近はあまり知らずとも駅から会社まで歩いていきます。まだ知らない土地でもある為、通う途中でも好奇心が当然湧きます。
会社まで歩いていく途中に神社があります。何だか気になりますが朝は出社ぎりぎりだし、帰りは「疲れているために」その神社は気になってはいるものの、いつも通りすぎます。
ある休みの日にテレビを見ているとあなたが好きなパワースポット特集をしていました。
そうです、そこに映っていたのはあなたがいつも気になっていた神社でした。
「願いが叶った。」人々がコメントしていました。あなたは「やはり」あの場所は「良い気に満ちていたんだ」と思い、次の日には会社に早く出向き神社に拝みにいきます。
会社まで歩いていく途中に神社があります。何だか気になりますが朝は出社ぎりぎりだし、帰りは「疲れているために」その神社は気になってはいるものの、いつも通りすぎます。
ある休みの日にテレビを見ているとニュースで「この神社の境内で人が死んでしまった」と言っていました。
そうです、そこに映っていたのはあなたがいつも気になっていた神社でした。
「やはり」あの場所は「禍々しい気で満ちているんだ」と思い、次の日に神社を避けて会社に向かいました。
これもそうですね。あなたは「気」にはなっていても、そこにまだ「レッテル」を貼っていませんでした。「レッテル」を貼ったのはテレビのコメントをした人々やニュースです。
あなたは「気」になっただけです。この時点では善も悪もないんですね。
ただ何か「有る」ことに「気」づいたんですね。
神社があなたに「何かが有る」(エネルギーやパワー)をアフォードしていても、その後の情報がレッテル(シグニファイア)を貼ってしまったというお話ですね(笑)。
(もちろん本来のアフォーダンスやシグニファイアの用い方とは異なるかも知れませんし、共通するものがあるかも知れませんが、一つの捉え方としては面白いかな?と思いますが、いかがでしょう?(笑)
このような考え方は白魔術や黒魔術を分ける前の古い呪術のお話しにもつながることですね。
実際、パワーがあればそれはあくまでパワーであり、その後に白だ黒だと決めたという考えにいたります。元は一つでその後に白や黒に認識されたという考え方ですね。
もちろん白いエネルギーは元々白く、黒いエネルギーは元々黒いという捉え方もあります。
どちらの考えが正しいかは解りませんが、昔の呪術師は「気」を得る為にわざわざ「陰の気」が多い墓地へ「気」を吸収しにいったと言う話も聞いた事があります。
要するに「陰のエネルギー」であろうと「陽のエネルギー」であろうとエネルギーはエネルギー。それを自分にとって良いものにするか悪いものにするかはその後の自分次第という考え方ですね。
さてさて、あなたならどのように捉えますか?