ペルソナとシャドウについて少しお話をしたので、今回はペルソナとアニマ、ペルソナとアニムスについて少しだけ書きたいと思います。
ペルソナの仮面や役割についてはお話ししたので、もう理解していただいたと思いますが、シャドウがペルソナを補完したように、アニマやアニムスもペルソナを補完するようにできています。
女性は女性らしく、男性は男性らしくといった事が社会や家庭では強いられますよね。「○○ちゃんは女の子だから」「○○クンは男の子だから」。よく言われる事で誰でも少しは経験があると思います。
アニマとは、「男性が男性らしく振舞う事を強いられることによって無意識にバランスを取ろうとする女性性の働き」だと、まずは考えてください。
正確には「そこから見出される男性の中の女性原理」だということです。
そしてアニムスとは「女性が女性らしく振舞う事を強いられることによって無意識にバランスを取るために補うものとして見出されていく、女性の中の男性原理」だと考えると解りやすいのでは、と思います。
現代は、女性も男性も昔ほどこれらに縛られる事はないと思います。
しかし、男性も女性もそれぞれが異性の全てを理解することはできないはずです。
なので言い換えれば、社会が求める女性というペルソナ、社会が求める男性というペルソナ、そしてその補完としてバランスをとるように見出されていくアニムスやアニマの関係を良く知るこで、人が成長していく「自己実現」とか言われるものに少しずつでも到達していくのではと思われます。
夢でシャドウが同性として現れるのとは逆に、アニムスやアニマは夢で異性として現れてきます。
シャドウは無意識でも比較的浅いところにあるので、アニマ・アニムスよりは気づきやすいのですが、女性のアニムス、男性のアニマは無意識でも深いところにあり、シャドウより理解しにくいものになっていると考えられています。(勿論、異性の姿だけではなく、男性の中のアニマなどは猫や白鳥など動物や、感情が高められるようなムード音楽としても現れます。)
女性でも小さな頃は、あまり社会から女性としてのペルソナを強く要求されないため、女の子でも「男の子と一緒に活発に遊んでいた」、男の子でも「ままごと遊びや人形遊びが好きだった」などもよく聞きます。
こうして男女とも思春期に向かい、社会や家庭、学校や職場、様々な人間関係で自然に「女の子は女の子らしく」「男の子は男の子らしく」を要求され、身につけていきます。身体や脳が成長と老いをたどり成熟していく過程のように、アニマ・アニムスも本来段階ごとに成長し、発達していきます。
女性の場合、女性が女性を強いられるということは、本来内在している男性性を磨くチャンスがなくなり、劣勢機能として未だ無意識に内在しているままであるということにもなります。通常は男性は思考型が多く、論理思考、分析、合理、損得、客観的事実、女性は感情型が多く、愛情、感情、気持ち、潤滑油的な役割、サポート的な役割り、気配りが出来るなどと、社会が思い込んでいる。もしくは、それぞれの異性がそう思い込んでいるステレオタイプ的なペルソナではないのかと思います。
これを現す例として、日本では昔の家父長制度(家制度)などがあります。女性に「嫁」という役割を与えながらも「女は・・・・しなくていい」「女は・・・・」など、女性の男性性を磨く機会を与えなかったところがあるのは事実でしょう。
しかし、だからと言って男性も女性も役割がなく、全く同じだというのもどうでしょうか?
やはり女性と男性がこの世の中にいる限り、女性の方が適したことや男性の方が適したことがあるとも思います。
昔ほどの女性や男性を強いるのはどうかとは思いますが、やはり今の社会や人間関係が望む「ペルソナである女性」、「ペルソナである男性」の役割をこなす必要は多少ありますよね?
ただ、それが役割から強いられていることだと認識することも大切ではないかと思います。
そうすることで、かえってその中でバランスをとろうとするアニマやアニムスにも気づくのではないでしょうか?
では、まず男性のアニマについて書いていきます。
(同時にアニマの形成の説明に必要ですからグレートマザーについても少し書きますね)
男性の中にあるアニマの根源には大いなる母のイメージがあります。大いなる母は優しさ、慈しみ、「子を守り、抱きかかえる偉大な母(グレートマザー)」として無意識に存在しています。
それを実際の母(またはその代りとなる人)から受取るのでしょう。
この母はこういった良い面だけではなく、優しさがあると同時に「甘やかし過ぎ」も生み出し、「守り抱きかかえる」と同時に、自分の目の届く安心できるところに常においておきたい理由から「束縛や独占」なども生み出します。俗に言うグレートマザーの暗黒面も存在しています。
この大いなる母によって子供は守られ、成長するのでしょう。しかし、この母がもし子供が成長しても「行き過ぎた愛情」を間違った形で子供にかけたらどうなるのでしょうか?
行き過ぎた束縛や独占を強いる母もまた、自分の中にあるアニムス像を上手く扱うことが出来ず、子供に投影をして、他人から見ると「行き過ぎた過保護」に見えてしまうこともあるでしょう。
要するに、女性も母であるとともに女性であり、母として生きる事は当然素晴らしいことでしょうが、暗黒面の克服が難しくなるのは、アニムスとの折り合いに何らかの問題があるとも言えるのではないかと思うのです。
何故ならこの暗黒面を克服するには「男性の性質」である「切る、分ける」ことが大切になるからです。この「切る、分ける力」は、共感する力とは反対に「私は私、子供は子供」という考え方ですよね。
「私もあなたと一緒で・・・よ」という言葉や気持ちは、母でなくとも母性を無意識に感じさせ、人に深い安心感を与えます。
しかし成長していく男の子に対して「私と子供」の区別がつかなくなればどうでしょうか?
人は自分の人生を嫌でも生きねばなりません。しかし子供の人生は子供しか生きられませんよね?
この当たり前の事が、母性が強いあまり解らなくなってしまうのでしょうね。
とくに本来、正常に育った男の子なら、この「母と一緒」の感覚に強く反発を感じることが社会で生きていく力にもなります。「自分は自分」といった独立した自我を持とうとすることは、社会で生き抜くためには必要な事でもあります。
小さいころは常に自分の手の届くところにいますが、成長と共に学校にも行き、友達とも遊び、彼や彼女ともデートしたり、一人で外出や趣味を楽しんだり、母が常に一緒にいられなくなります。
その時に子供を「母がいなくても大丈夫な子」に成長させてあげる事、「独りでも大丈夫」と信じてあげる事こそが、本来の生み育む力だと思います。やはりそれを可能にするには「私は私、子供は子供」という「切る、分ける」力が必要なのではないでしょうか?
「人は少々痛い目や失敗を通してしか学べないこともある」。この姿勢は親である以上考えなくてはいけない事だと思います。それをあえて封じ込めるようでは、やはりその子供のアニマの成長自体が母で止まって成長できなくなってしまいます。
話を戻せば、本来この母の過程から母の持つイメージを他の人に投射していき、母が行き過ぎる束縛をしなければ自然に自分ながらの行動も確立していき、人間関係を築いていきます。
男の子ならこれらの行動を通して、色々な年上の異性に母からもらった母性をアニマ像に至る前段階として確立していくでしょう。
そしてアニマの四段階である「生物学的な段階」「ロマンチックな段階」「霊的な段階」「叡智の段階」に発達させていきます。