南伝仏教(小乗仏教)と北伝仏教(大乗仏教)の違いを少し書きますね。
南伝仏教(不適切だが小乗仏教、現在は確か小乗仏教とは言われていないはずですが、ここでは伝わり易いので、敢えて小乗仏教と書かせていただきます)
ここでの修行僧の修行の目的は「自分が最高の悟りを開き、仏教において尊敬や施しを受けるに相応しい最高位の聖者になること」です。この最高の悟りを開いた聖者を小乗仏教では阿羅漢(あらかん)と言います。阿羅漢(あらかん)となる為には、出家し、厳しい戒律に従い生活をしなければなりません。食事は午前の一日一回で、遊ぶことも結婚も当然許されません。財は持たず、瞑想と読経に大部分の時間を費やす日々を送らなければいけません。
原始仏教では阿羅漢を「覚ったもの」と言い、仏と同じだと考えました。過去現在因果経などでは、初転法輪の後に六人の阿羅漢が世にあったと述べられています。六人とは要するにお釈迦様と初めて弟子にした五人を指します,
しかし部派仏教(根本仏教から分裂した諸派の仏教)では、阿羅漢と仏とは異なるものとみなします。部派仏教が言う阿羅漢とは「修行によって煩悩を断ち切ることで到達できる悟りの境地ではあるものの、仏とは異なるもの」としています。何故なら、仏は煩悩を断ち切ることだけではなく、自己の利益よりも他者の利益を優先する考え方「利他心」を備えていなければ仏ではないと考えるからです。
その中でも大乗仏教は、縁覚(独覚)や阿羅漢も仏とはみなさない事が多くあります。同時に「菩薩と対立するもの」とみなしているようです。簡単に言えば、悟りを得ても他者の救済に励まないということでしょうか。縁覚(独覚)などは、師を持たず独学で悟りを得ても法を説くことなく、悟りを得た事も知られぬまま死んでいく方達が多いからかもしれません。しかし大乗仏教では、阿羅漢の方は如来の別称として認めているところもあります。大乗での教えを説く場合に「認めるところ」と「認めれないところ」があるという意味にも取れます。小乗の修行者という意味で、否定的な意味を込めて使うこともありますね。
つづく・・・