「憑依シリーズ」まだまだ続きます(笑)

常に「左の考えと右の考え、両者の狭間に何があるのか?」考察するのが私は好きです。
「ワクワク」してしまいます(笑)。若い頃、ここでも書いたブードゥー教の呪いなどは、自分でも考察してはいるものの、はっきりとした答えは出ませんでした。
今のようにインターネットであらゆる情報を手に入れられる時代ではないので、生理学的に説明できる情報に触れたときは「本当に楽しくてワクワク」しました。

みなさんも色々な方に「幽霊を見た」とか言われませんか?
もちろんあなた自身が体験しているかもしれません。
私も小さなときから色々感じてしまい、本当に困りました。

しかし、よく言われる「見たり」「聞いたり」だけならいいんですよね。
本当に感じる方なら解ってもらえると思いますが、恐怖を感じる時などは頭で「怖い」という認知ではないんですよね。
「見えたから怖い」「聞こえたから怖い」とかじゃない。
故に、人になど話したくもない(笑)。

細胞と言うかDNAと言うか、そこにダイレクトにアクセスしてくる感覚は、とてつもなく「純粋」なんですね。ピュアなんです。混じり気がないんです。
恐怖などは「生命原理として怖い」んですね(笑)。もちろん今は全然大丈夫(笑)。

その逆も色々あります。混じり気ない「愛」を感じるんですよね。
涙が出て止まらないほどです。
今でこそ思える事ですが、そんな時はやはり感謝と共に「俺はかなり汚れてるんだな」って思えます。いわゆる「浄化」なんですね。そういう混じり気のない「愛」に触れると(笑)。

しかし、これはあくまで主観のお話です。客観的なその他の視点でみれば話も変わってきます。
ですから私としては、良い悪いは別として「ピュアな感覚以外」は取り敢えず常に疑います。
何故疑うのか?信じたいからでもあります。
ふるいに掛けるとはそういう事ですね。
「憑依や幽霊」をまだまだ私なりに検証していきます。
あまり硬く難しくならないように気をつけますが・・・なってきたらすみません(笑)。

まず、初めに考えられるのが「見間違い」「思い込み」とか言われるものです。
人は「怖い」という感情があれば「怖いもの」に見えてしまいます。例えば木目や壁のシミが「恨めしそうな女性の顔」に見えるとか、信仰などの感情があれば「トーストに聖母マリアの顔を見た」とかにもなります。

心理学者バレットによって2004年に提唱された考え方に代理検出装置というものがあります。
人は常に無意識につながりを求めてしまいます。人は単体では生物としてはか弱いものですが、集団としては様々な役割分担などをこなし、強い集合体として働くものではないでしょうか。
多分このような人としての習性が、個人個人で自由に生きられるようになった今日でも働くのでは?とも思います。

このようなことから「顔を認識する」ということは、生きていくうえでとても重要とされてきました。
人は他の人や動物に出会った時、そのものがまず敵か味方かを判断したりを無意識にしてしまいます。更に相手の行動や感情などを読み取り、予測することなども無意識にしてしまいます。
そして、このようなことを成し遂げるには、まず相手の目を見る必要性があるのです。

更に人や動物のほとんどの顔の配置は、左目と右目を結びその2点は口に結ぶ逆三角形に配置されています。そしてこれも無意識に、点や線などが逆三角形に配置されたものを見ると、脳は「顔」と認識してしまいます。これをシミュラクラ現象と言います。
この機能が行き過ぎると、色々なところで目や口に鼻などを顔に見立てて見てしまいます。
心霊写真などの多くは、この認知機能によってある程度説明がつきます。

まずは当たり前のところから(笑)